昭和四十年四月?日   朝の御理解   テープ№40-049A面-1

                                入力 広崎克一


 私は朝晩のこうしたご祈念を奉仕させて頂いてそしてその朝それぞれの御理解を神様から頂きますその御理解の、ゆわゆる、ヒントを頂くのです、その時に私の心の中に一杯に広がるのは、言葉に表しようのない元気な心と確信です。
 私は自分の思惑とか知恵とか自分の調和の程度といったようなものが朝晩の御理解であるならば、そういうようなものは、いわば、「だろう」、と云うような事になってくるだろうと思うんです。
 けれども、私の場合それが神様にヒントを頂き、お知らせを頂いてから皆さんにお伝えさしていただくのですが、伝えさしてもらう私自身がそれを頂きます時に自分の心いっぱいに広がるもの、それは何か知らん名状し難い生気といったようなものを感じます、ゆわゆる、元気な心です。
 同時に心一杯に広がるのは、ゆうよう確信です、「これならおかげになる」と確信もってお伝え出来れる内容なんです、そういう内容を持った例えば朝晩の御理解でありましても皆さんがそれをそうと頂かなかったら同じであります。
 そこで皆さん自身がも御理解を頂かれる時に、「今日はコレだ、コレでいく、この御理解を元にして」と思うただけで心に生気が出る、頂いただけで心の中に確信が充ちてくる、といったようなおかげを頂かれなければ本当は皆さん御理解を頂かれる、ゆはゆる、「話を聞いて助かる」という事にはなってこないと思うんです。
 そうでしょうが、椛目の御理解はそういう意味で絶対なのです、ですから椛目の御理解は、言わば、私がこうして伝える時に頂かなければ本当の値打ちはないです、唯分かる、はあ今日の御理解はこういう御理解じゃったわいの、筋が分るだけなら後からテープで聞いてもいいです。
 けれども私が今申しますように心の中に頂く、ゆわゆる、生気です、確信です、そういう雰囲気が朝の御理解に、あるいは夜の御理解の中にあるはずなんです、ですからその雰囲気の中に皆さんも浸らしてもらう、先ず心の中に生気が出る、生気が湧いてくる、どういうです・?「これだ、今日これでいけばおかげを頂ける」という確信が皆さん心一杯に広がってくるようなです…?心の中に頂かなければ、朝お参りをして御理解を頂く値打ちはないです。
 それでもさ、朝の御理解に、こうして朝のご祈念にお参りになり、御理解を頂かれるということはありがたい、それとてもです、只今申しますように頂き方が出来なければ同じです。 
 今日は人の難儀を自分の難儀として感じれれる信心を頂きたい、人のことは人の事、ところがなかなか実感をもって、やっぱり人の難儀は人の難儀「人の難儀は気の毒なことじゃ、可哀そうなことじゃ」と思うても、自分の難儀として頂くということはなかなか実を云うたらと難しい。
 そこをしんしつ・?親心、子を思う切ない心、子供の難儀を見て親が難儀を感じないはずはないでしょう、自分の身内の者の難儀を感じて、やはり自分のよい・・?中にその難儀を感じるような実感をこういうものですけれども、はい私共はそこんところを勤めさして頂こう」と思うのです、その人のために祈らしてもらおう、その人のために修行さしてもらおう、そういう今日は一日でありたいと私は思います。
 私今日御神願に、今まで私がおしょうし・?に頂きます大黒様はいつも米俵の上にほたってから打ち出の小槌をもっている大黒様でした、ところが今日のはとてつもない大きな大黒様なんです、今まで頂く大黒様と違った一回り大きな大黒様なんです、その袋を大きな袋を担いでおられるという大黒様でした。
いわゆる、今まで、ゆわば、これは難儀と感じました、大きな袋を一段大きな、私が大きくなると同時に、一段大きな人の難儀を難儀として担げる余裕の有る時です。
 ゆわば、因幡の白兎の現れられる大黒様と思うて見られたらいいです、大国主神の、ゆわば、荷物を自分の身1つにたろうて 後から大黒様、先に行かれた…?神様達は荷物を弟に持たせて先に帰った、そして因幡の白兎の出会いになる、難儀を見て、そんなら塩水で体を洗えというて・・・?、さあ却って痛くなった、苦しくなったということです、その後から大きな荷物を担ぎながらお出でられた大黒様「それは痛かろう、苦しかろう、眞し水で体を洗い ガモウを敷いて休んだら楽になる」と教えられた、白兎は助かった、というお話なんです。
 私はあの時の大黒様、それこそ人の分もお兄様方の分も自分にヒッカらわせて頂いただあこうという元気な心、そして助けねばおかんという親切な心、丸裸になって苦しんでおる、いわば白兎にコンコンと教えられ、又楽になる道を教えられる私になりたい、そんなふうに私は思うです。
 そういうわけで今日はひとつ 本気でですね人の難儀を自分の難儀として又人の求めるものを自分が持たせて頂くという位な心を持って今日そこん処に取組ませて頂きたいと思うんです。  
 しかも私が申しますように、私の御理解を朝晩にこうして頂きますと、神様にヒントを頂く時に私の心の中に感ずるもの、それはもう確信に満ちたものであり、同時に私は心一杯に生気を感じる、そういう生気一杯の雰囲気、確信一杯の、そうしたその場の雰囲気の中に例えば今朝の御理解を頂かれる、それを皆さんがです「それだ、今日はこれで行こう、これでいけばおかげを頂ける」という確信とやはり、心の中に頂ける生気を、今日は人の難儀を自分の難儀として頂けていけるような処に焦点を置いてお出で得られたら、大きなその荷物を必ず又置かして頂けて、大きな一回り大きな・・?小包みを持ち替えさせて頂けれるおかげが又いただけれると私は確信する。  (終)